舞台照明の調光ユニットは、長い時間をかけて少しずつ姿を変えてきた。
その変化は、単なる機械の進化というより、劇場のつくり方や、あり方、 そしてそこで働く人の考え方そのものに影響を与えている。この話は、「何でもできる小屋」と「何もない小屋」のあいだを行き来しながら、舞台照明の技術と劇場の関係を振り返るためのものだ。
目次
電子調光の登場と、劇場空間の変化
1960年代、
SCR(シリコン制御整流器)による電子調光が登場する。それまでの抵抗式やオートトランス式と比べ、調光ユニットは大幅に小型化・多回路化された。この変化は、単に扱える回路数が増えたという話ではない。調光ユニットの設置場所の自由度が高まり、調光室を客席後方に設けるといった配置も、この頃から現実的な選択肢になっていく。機械の進化は、劇場という空間の設計そのものに影響を与え始めていた。
1980年代:コンピュータという考え方が入ってくる
1980年代になると、家庭の中に小型ゲーム機や、マイクロコンピュータ(マイコン)、パーソナルコンピュータ(パソコン)が少しずつ入り始める。それまで一部の専門分野に限られていた「電子的に処理する」という考え方が、家庭の中でも現実的なものとして意識され始めた時代だ。こうした社会全体の変化は、舞台照明の世界にも自然に入り込んでくる。
従来の調光卓は、フェーダー操作そのものが中心だったが、この頃から、コンピュータで状態を記憶し、呼び出すという発想が加わっていく。
昭和末期には、いわゆるコンピュータ卓(ノンフェーダー卓)が登場し、舞台照明の操作は「手の動き」から「情報をどう扱うか」という思考へと、少しずつ比重を移していった。
2000年代:配線から情報へ
2000年代に入ると、家庭や職場の中で、ネットワークは特別な技術ではなくなっていく。
インターネットやLANといった言葉が一般化し、複数の機器をつないで使うという考え方が、ごく自然なものとして受け入れられるようになった。舞台照明の世界でも、この流れは同じように現れる。Ethernetを用いた通信や、DMXのネットワーク化によって、調光ユニットは「一箇所にまとめて置くもの」ではなくなっていく。
ここで忘れてはならないのが、DMX(Digital Multiplex)の登場だ。それまで調光は、回路ごとに制御線を引き回す、いわば「物理的な束ね方」で成り立っていた。DMXは、多くの回路情報を一本の信号線で扱うという考え方を持ち込み、照明制御を配線の世界から、情報の世界へと大きく押し進めた。この変化は、単に便利になったという話ではない。「どこに、何を、どう配置するか」その自由度を一気に広げ、劇場という空間の考え方そのものに影響を与えていく。
四季の視点から見た、もう一つの流れ
同じ頃、もう一つ別の流れも生まれていた。
1980年代後半から1990年代にかけて、劇団四季をはじめとする大型ミュージカルの現場では、ブロードウェイスタイルと呼ばれる考え方が強く意識されるようになる。
それは、「劇場に公演を当てはめる」のではなく「公演のためにシステムを構築する」という発想だ。『CATS』に代表される仮設劇場や、作品ごとに設計された舞台・照明・音響システムは、芝居の要求が先にあり、それに合わせて技術が組み立てられていった例と言える。ここでは、技術が芝居を規定したのではなく、芝居が技術のかたちを決めていった。
技術は、現場の声から形になってきた
こうした流れを振り返ると、調光ユニットや照明システムの進化は決してメーカーだけが主導してきたものではないことが分かる。現場で働くスタッフが、「ここが不便だ」「こうできたら助かる」と声を上げ、考え、試行錯誤する。
その積み重ねを、メーカーが技術として形にしてきた。私たちが今使っている道具は、現場の想いの延長線上にある。
劇場のあり方という視点
前者は、多くの設備を最初から備え、どんな公演にも対応しようとする劇場だ。
後者は、設備を固定せず、公演ごとに最適なシステムを組み上げることを前提とする。
劇団四季の仮設劇場は、この後者の考え方を、かなり早い段階から実践してきた例と言える。
自分が使っている道具が、どうやってここまで来たのか。全部を理解する必要はないと思う。でも、よく分からないまま道具に触れていると、いつの間にか道具の方に振り回されてしまう。分からないからこそ、少しだけ知ろうとする。それだけで道具との関係は変わる。せっかくなら、道具に使われる側ではなく、使う側で現場に立っていたい。
