劇場は、街を育てる (全4回) 第一話

 大阪松竹座は、なぜ道頓堀で惜しまれるのか

大阪松竹座が、百年以上の歴史にいったん幕を下ろした。

松竹は、大阪松竹座での興行を2026年5月公演で終了し、その後、ビルを閉館すると発表した。さらにその後、建物の解体に進む方針も示された。これは単なる「建て替え」の話ではない。

道頓堀の、あの場所から劇場が一度消える。

その知らせに、多くの人が驚き、「文化の火を消すな」という声が上がった。その後、松竹は新たな劇場の建設を目指す方針を示し、ひとまず多くの人が胸をなで下ろした。
けれど私は、そのニュースを見ながら別のことが気になっていた。なぜ、これほどまでに「あの場所」が惜しまれるのだろう。劇場なら、別の場所へ建てても芝居はできる。それでも人々が守りたかったのは、建物だけではないように思えた。

その答えは、道頓堀川にある。

📷 写真
大阪松竹座

劇場へ行く前から、芝居は始まっていた

大阪は、川とともに発展した町でした。
豊臣の時代から掘割が整えられ、人も物も船で行き交う「水の都」として栄えていきます。道頓堀川も、その街を支える大切な水路の一つでした。

だから、芝居見物も川から始まります。

船で道頓堀川を上る。
岸辺の茶屋に上がる。
茶で一服する。
人の流れを見る。
役者の噂を聞く。
芝居茶屋で席を手配してもらう。
時間によっては、幕間に食べる弁当を頼む。
そして道を渡って、芝居小屋へ入る。

芝居見物は、いわばコース料理のような娯楽でした。劇場へ入る前から始まり、劇場を出た後まで続く。その日一日を街ごと楽しむことが、芝居見物だったのです。

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道頓堀川と芝居小屋の錦絵

📎 豆知識|幕内弁当

「幕内弁当」の名前は、芝居の幕間に食べた弁当に由来します。今では駅弁として知られるこの言葉も、もとは芝居見物の文化から生まれました。

劇場は、街を育てる

芝居小屋が一軒建っただけでは、芝居町にはなりません。

芝居小屋ができると、人が集まり。
その人たちのために、茶屋ができる。
茶屋ができれば、飯屋もできる。
飯屋だけでは、楽しみがない。
芝居の帰りの土産を求める人が出て、土産物屋ができる。
人気役者が生まれれば、役者絵を売る店も並ぶ。

こうして劇場ができれば街が潤う。その商いがまた新しい人を呼び込み、街は少しずつ広がっていく。人が集まるから街が育ち、街が育つからまた人が集まる。

この積み重ねが、劇場を中心とした一つの文化圏を育てていったのです。

だから、大阪松竹座が惜しまれた理由は、建物が古かったからではないのだと思います。人々が守りたかったのは、その場所に積み重なってきた街の記憶であり、人が集まり続けた文化そのものだったのではないでしょうか。

📎 豆知識|浮世絵は当時のメディア

芝居町には役者絵を売る店も並びました。現在では美術品として扱われる浮世絵ですが、当時は人気役者を伝える身近なメディアでもありました。お気に入りの役者を買い、家に飾り、次の芝居を楽しみに待つ。今で言えばブロマイドやポスターのような役割も担っていたのです。

▶ 次回
街は、新しい娯楽を育てる
江戸三座は、なぜ猿若町へ移されたのか。

芝居町は、寄席、活動写真、浅草オペラへと姿を変えながら、近代日本最大の娯楽街へ成長していきます。